10.「敵を愛しなさい」―自然のままの姿を越え出る道

10「敵を愛しなさい」―自然のままの姿を越え出る道
マタイ5:43〜48、他

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0,導入


(約4分)

1,条件付きの「敵への愛」―旧約聖書の眼差しから


(約16分)

2,無条件の「敵への愛」―ルカによる福音書6:27〜38より


(約25分)

3,「肉の人」を越え出る道―マタイによる福音書5:43〜48より


(約15分)

聴取期限3/7

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ポイント

  • 「敵を愛しなさい」。キリスト教の代名詞とも言えるこの言葉は、しかし、人間には実行不可能ではないのか。この「人間の現実」を聖書はどう見つめてきたのか、まず旧約聖書のレビ記と出エジプト記から探る。
  • 旧約全巻の中で「敵への愛」が語られているのは、たった2ヶ所。これは、人間にとって「敵を愛する」ことがいかに困難かを示す証拠。
    しかし、この旧約を踏まえているはずの新約では、状況は一変し、「敵を愛する」ことが繰り返し語られる。この「新しさ」は、何に由来するのか。ルカ福音書6:27〜38の構造から考える。
  • 「敵を愛する」ことを私たちが常に出来るわけではないのは、それが人間の自然な心の動きに反しているから。欠けと限界を抱えたままの私たちが、この主イエスの言葉に真向かう道は、どこにあるのか。マタイ福音書5:43〜48を参照し、考える。

聖書で言う「肉の人」とは?


自分を愛してくれる人を愛する・・・自分の兄弟にだけ挨拶をする・・・
つまり「自然のままに生きている人」が「肉の人」。

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:16〜17)

 
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」
この直訳は、「誰かがキリストの中にあれば、新しく創造された者」。
キリストの中にある人は、もう既に自然的なあり方を超えてしまっている。

キリストを通して、神が何をなされたか。
それをよく見つめること・・・
「敵を愛する」という生き方へ・・・。

9.「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」―何故イエスは疑う者を遣わすのか

9「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」―何故イエスは疑う者を遣わすのか
マタイ14:22〜33、他

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1,「信仰の父」が故郷を捨てた理由
―アブラハムの生涯その1


(約14分)

2,「信仰の父」の躓き
―アブラハムの生涯その2


(約19分)

3,ディアクリノーとディスタゾー、2つの「疑い」


(約13分)

4,2つに引き裂かれた心
―マタイとマルコの「湖の上を歩く」出来事の比較から


(約15分)

聴取期限2/7

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ポイント
●旧約聖書では「信じる」よりも「探し求める」という言葉の方が多い。そしてそれ故に、「疑う」という言葉も少ない。何故、旧約の民は「探し求める」のか。アブラハムの生涯から、その背景を辿る。
●アブラハムの歩みは、その最初から「信仰の父」と呼べるようなものではなかった。躓きから始まった彼の旅を通して、彼がどのように「信仰の父」になったのかを辿る。
●新約聖書に出てくる「疑い」を意味するギリシャ語、ディアクリノーとディスタゾー。異なる意味合いを持つこの2つの言葉を吟味し、「信仰と疑い」の関係を探る。
●信じたくとも信じられない。そのような人間の現実を、新約聖書はどう見つめるのか。マタイ14:22〜33に描かれている「湖の上を歩く」出来事を、その並行箇所であるマルコ6:45〜52と比較し、「信仰と疑い」の聖書的次元を探る。


今回の聖書箇所であるマタイ14:22〜33の並行箇所、マルコ6:45〜52では、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたから」と、弟子の無理解が描かれています。
対してマタイでは、「『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」と、正反対になっている。

ペトロが舟から降りるということがなかったら、舟の中にいた人たちの驚きは無かった。

彼のその行為がなければ、他の弟子たちの驚きは無かった・・・。


マルコと同様に、理解できないままで終わってしまったかもしれません。
だから、「心が二つに分かれる」ということは、信仰者には起こるべくして起こること。

イエスはそれを知っている。

だから、ガリラヤの山で弟子たちに再び出会った時に、
彼らが疑っていたことを知っていて、宣教に派遣したのではないか…。

8.「悔い改めて福音を信じなさい」―旧新約聖書を貫く「悔い改め」の意味

8「悔い改めて福音を信じなさい―旧新約聖書を貫く「悔い改め」の意味
マルコ1:15、他

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1,人は、御言葉を行うことが出来るか
―申命記30章11〜14節と、1〜10節の対比から


(約32分)

2,「わたしに立ち返れ」
―イザヤが見た無償の赦し


(約7分)

3,罪を誰との関わりで見つめるか
―ユダとペトロの違いから


(約22分)

聴取期限1/10

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ポイント
●「悔い改めて福音を信じなさい」。主イエスの公生涯の幕開けとなり、そして、それを貫いた言葉。しかし、雨宮神父様によれば、この「悔い改める」という言葉は、日本語のイメージと聖書が語る内容はだいぶ異なる。
●聖書の「悔い改め」理解の第一歩として、申命記30章から学ぶ。
●「神によって心に割礼を施してもらうことで、初めて御言葉を実行できる」というのが、申命記30章1〜14節の主張。
●更に、申命記の時代よりも行き詰りの時代を生きた預言者「第二イザヤ」の言葉から、「神がどのように人間を呼んでいるのか」を尋ねる。
●人間的に見れば、その裏切りに大差は無いユダとペトロ。しかし、その後の歩みは根本的に異なったものとなった。マタイによる福音書から、二人の裏切りの場面を通し、この違いがどこから来るのかを探る。

 

ペトロとユダ。どちらも裏切った弟子であることには変わりない。
なのに、その後の歩みはなぜこうも違うのか・・・?


ペトロは、イエスとずっと一緒だった。イエスの思いを実感していた。
そして、新約聖書は、神の思いはイエスに於いて余すところ無く実現されていると受け止めている。

旧約聖書も新約聖書も、神の思いを尋ねる中で、「悔い改める」ことをしてきた・・・。


「立ち返る」という日本語は、心の動きには使われないから、「悔い改める」という意味が含まれていることは、日本人には分かりにくい。

日本語の「悔い改める」は、「人間の努力」に力点がある。
しかし、聖書の「立ち返る」は、「立ち返るべき場所」を指し示す。

それが、罪を吹き消した神と結びつくなら、神の愛に包まれ、暖められることになる。

7.「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」ー「神の掟」と「人間の言い伝え」

7「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」ー「神の掟」と「人間の言い伝え」
マタイ22:15〜22、他

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1,「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」の解釈
―代表的な注解書の記述から


(約15分)

2,「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」の真意を求めて
―3つの原語からたどる


(約22分)

3,「神の掟」と「人間の言い伝え」
―マルコによる福音書7章2〜8節から


(約18分)

聴取期限12/13

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ポイント
●今回の箇所は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉。よく知られた言葉でありながら、しかし、この言葉の真意を知るのは難しいと雨宮神父も仰る。
●専門家である聖書学者にも「真意は図りがたい」と言わしめる、このイエスの言葉。そこで、「適っている」エクセスティン、「肖像」エイコーン、「偽善者」ヒュポクリテースの3語の意味を辿るという別の角度から、この言葉にアプローチする。
●主イエスはファリサイ派や律法学者達を「偽善者」と批判される。彼らや私たちの何が、主イエスをそこまで憤らせるのか。
●マルコによる福音書7章2〜8節で引用されているイザヤ書29章13・14節の言葉。教会生活の中で私たちが無意識の内に行ってしまっていることは何か。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
これは、イエスがファリサイ派たちを言い負かしたというだけでは済まないのでは・・・?


ファリサイ派の人たちというのは、律法に忠実で、しかも熱心な人たち。
しかし、彼らは律法を「書かれた文字」として考えていた。

その律法を具体的な状況に合わせるために、様々な解釈がなされた。
しかし、それは神から見れば、人間が無意識の内に勝手に変えてしまったもの。

感じるのは、「人間の業の深さ」のようなもの・・・。


自分では律法を守っているつもり。
そこにある「都合の良さ」。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
その解釈を巡って見つめるべきは、ここにこそあるのでは・・・。

6.「兄弟に『ばか』と言う者は」―人を解き放つイエスのアンチテーゼ

6「兄弟に『ばか』と言う者は」―人を解き放つイエスのアンチテーゼ
マタイ5:21〜26、他

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1,イエスによる、掟の新しい解釈
―マタイによる福音書5章21〜26節から


(約16分)

2,人が自分の落ち度を認める時
―マタイによる福音書5章22節、23〜24節、25〜26節の展開から


(約16分)

3,イエスの死と復活の意味
―コリントの信徒への手紙一 15章1〜5節から


(約14分)

4,和解のイニシアチブ
―コリントの信徒への手紙二 5章17〜21節から


(約12分)

聴取期限11/8

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ポイント
●今回の箇所は、「あなたがたも聞いている通り・・・しかし、私は言っておく」というフレーズが繰り返される、その第一の箇所。テーゼとして掲げられる律法、それに対して新しく打ち出されるイエスのアンチテーゼの「新しさ」はどこにあるのか。
●人との関わりと衝突は、生きる上では避けられない。そこに、本当の許しはあるのか。マタイ5:22〜26の「主語」に着目し、イエスのアンチテーゼの真意を探る。
●神からの赦しの確信は、常に揺らぐ。1コリント15:1〜5のギリシャ語の「動詞」に注目し、パウロ自身が受けとってきた福音の中核を問いなおす。
●「和解のために奉仕する任務」。この重い務めは、何に支えられているのか?

 


「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」
これは、「キリストの中に誰かがあれば、新しく創造された者」の意。

「キリストの中にある」とは・・・?


恐らくは、「キリストと深い関わりの中にある」ということ。

そして、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」とパウロは語る。

神と私たちの和解とは・・・?


これは、通常の和解ではない。
悪いことをした方から謝罪し、和解の第一を始める。
しかし、ここでは神がイニシアチブをとっている。

イエス・キリストは、神が世と和解しようとして語りかけた、「和解の言葉」なのだ・・・。