8.「悔い改めて福音を信じなさい」―旧新約聖書を貫く「悔い改め」の意味

8「悔い改めて福音を信じなさい―旧新約聖書を貫く「悔い改め」の意味
マルコ1:15、他

***
1,人は、御言葉を行うことが出来るか
―申命記30章11〜14節と、1〜10節の対比から


(約32分)

2,「わたしに立ち返れ」
―イザヤが見た無償の赦し


(約7分)

3,罪を誰との関わりで見つめるか
―ユダとペトロの違いから


(約22分)

聴取期限1/10

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ポイント
●「悔い改めて福音を信じなさい」。主イエスの公生涯の幕開けとなり、そして、それを貫いた言葉。しかし、雨宮神父様によれば、この「悔い改める」という言葉は、日本語のイメージと聖書が語る内容はだいぶ異なる。
●聖書の「悔い改め」理解の第一歩として、申命記30章から学ぶ。
●「神によって心に割礼を施してもらうことで、初めて御言葉を実行できる」というのが、申命記30章1〜14節の主張。
●更に、申命記の時代よりも行き詰りの時代を生きた預言者「第二イザヤ」の言葉から、「神がどのように人間を呼んでいるのか」を尋ねる。
●人間的に見れば、その裏切りに大差は無いユダとペトロ。しかし、その後の歩みは根本的に異なったものとなった。マタイによる福音書から、二人の裏切りの場面を通し、この違いがどこから来るのかを探る。

 

ペトロとユダ。どちらも裏切った弟子であることには変わりない。
なのに、その後の歩みはなぜこうも違うのか・・・?


ペトロは、イエスとずっと一緒だった。イエスの思いを実感していた。
そして、新約聖書は、神の思いはイエスに於いて余すところ無く実現されていると受け止めている。

旧約聖書も新約聖書も、神の思いを尋ねる中で、「悔い改める」ことをしてきた・・・。


「立ち返る」という日本語は、心の動きには使われないから、「悔い改める」という意味が含まれていることは、日本人には分かりにくい。

日本語の「悔い改める」は、「人間の努力」に力点がある。
しかし、聖書の「立ち返る」は、「立ち返るべき場所」を指し示す。

それが、罪を吹き消した神と結びつくなら、神の愛に包まれ、暖められることになる。


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7.「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」ー「神の掟」と「人間の言い伝え」

7「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」ー「神の掟」と「人間の言い伝え」
マタイ22:15〜22、他

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1,「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」の解釈
―代表的な注解書の記述から


(約15分)

2,「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」の真意を求めて
―3つの原語からたどる


(約22分)

3,「神の掟」と「人間の言い伝え」
―マルコによる福音書7章2〜8節から


(約18分)

聴取期限12/13

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ポイント
●今回の箇所は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉。よく知られた言葉でありながら、しかし、この言葉の真意を知るのは難しいと雨宮神父も仰る。
●専門家である聖書学者にも「真意は図りがたい」と言わしめる、このイエスの言葉。そこで、「適っている」エクセスティン、「肖像」エイコーン、「偽善者」ヒュポクリテースの3語の意味を辿るという別の角度から、この言葉にアプローチする。
●主イエスはファリサイ派や律法学者達を「偽善者」と批判される。彼らや私たちの何が、主イエスをそこまで憤らせるのか。
●マルコによる福音書7章2〜8節で引用されているイザヤ書29章13・14節の言葉。教会生活の中で私たちが無意識の内に行ってしまっていることは何か。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
これは、イエスがファリサイ派たちを言い負かしたというだけでは済まないのでは・・・?


ファリサイ派の人たちというのは、律法に忠実で、しかも熱心な人たち。
しかし、彼らは律法を「書かれた文字」として考えていた。

その律法を具体的な状況に合わせるために、様々な解釈がなされた。
しかし、それは神から見れば、人間が無意識の内に勝手に変えてしまったもの。

感じるのは、「人間の業の深さ」のようなもの・・・。


自分では律法を守っているつもり。
そこにある「都合の良さ」。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
その解釈を巡って見つめるべきは、ここにこそあるのでは・・・。


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6.「兄弟に『ばか』と言う者は」―人を解き放つイエスのアンチテーゼ

6「兄弟に『ばか』と言う者は」―人を解き放つイエスのアンチテーゼ
マタイ5:21〜26、他

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1,イエスによる、掟の新しい解釈
―マタイによる福音書5章21〜26節から


(約16分)

2,人が自分の落ち度を認める時
―マタイによる福音書5章22節、23〜24節、25〜26節の展開から


(約16分)

3,イエスの死と復活の意味
―コリントの信徒への手紙一 15章1〜5節から


(約14分)

4,和解のイニシアチブ
―コリントの信徒への手紙二 5章17〜21節から


(約12分)

聴取期限11/8

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ポイント
●今回の箇所は、「あなたがたも聞いている通り・・・しかし、私は言っておく」というフレーズが繰り返される、その第一の箇所。テーゼとして掲げられる律法、それに対して新しく打ち出されるイエスのアンチテーゼの「新しさ」はどこにあるのか。
●人との関わりと衝突は、生きる上では避けられない。そこに、本当の許しはあるのか。マタイ5:22〜26の「主語」に着目し、イエスのアンチテーゼの真意を探る。
●神からの赦しの確信は、常に揺らぐ。1コリント15:1〜5のギリシャ語の「動詞」に注目し、パウロ自身が受けとってきた福音の中核を問いなおす。
●「和解のために奉仕する任務」。この重い務めは、何に支えられているのか?

 


「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」
これは、「キリストの中に誰かがあれば、新しく創造された者」の意。

「キリストの中にある」とは・・・?


恐らくは、「キリストと深い関わりの中にある」ということ。

そして、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」とパウロは語る。

神と私たちの和解とは・・・?


これは、通常の和解ではない。
悪いことをした方から謝罪し、和解の第一を始める。
しかし、ここでは神がイニシアチブをとっている。

イエス・キリストは、神が世と和解しようとして語りかけた、「和解の言葉」なのだ・・・。


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5.「あなたがたは地の塩、世の光である」―私たちの光源とは何か

5「あなたがたは地の塩、世の光である」―私たちの光源とは何か
マタイ5:13〜16、他

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0,導入
―今回学ぶ3つのポイントについて


(約7分)

1,「地」と「天」
―人間は何と関わり、生きているか


(約8分)

2,「地の塩・世の光である」とは
―光はどこから来るのか


(約28分)

3,人々のための宣教・自分のための宣教


(約14分)

聴取期限10/11

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ポイント
●「地の塩、世の光」という有名な聖書箇所が今回のテーマ。「クリスチャンとしての『べき論』」「道徳的指針」として受け取られがちなこの箇所。地を這いつくばりながら生きている私たちにとっての、この言葉の意味とは。
●「あなたがたは世の光である」と言われた時、その光はどこから来るのか。マタイ福音書4章12-17節と、その並行箇所であるマルコ福音書1章14-15節の比較・分析を通して、福音書記者たちが何に光を見出したのかを探る。
●上記の比較から、マタイはマルコ福音書1章14-15節の間を割いて、マタイ福音書4章13-17節を加えたことが推測される。その意図はどこにあるかを雨宮神父は説く。
●マタイ5:16「あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい」。この原文の主語は、「光」(「あなたがたの光が、人々の前で輝け」)。

 


「光」という言葉で、どんなことをイメージするだろうか?

「光に憧れる」のと同時に、
「白日の下に晒される」ことへの恐れ・・・。


確かに、イエスは光であり、我々の罪を明らかにする。
しかし、イエスは赦す御方。
であれば、罪を隠すよりも、イエスにさらけ出した方がずっと良い。

光源であるイエスから、光を受けていると分かっていても、
その小ささにばかり目が向いてしまう・・・。


「あなたがたの光を、人々の前に輝かしなさい。」
この原文は、「あなたがたの光が、人々の前で輝け。」
イエスの光は、あなた方の中で輝こうとしている。
それをどうして隠そうとするのか・・・。


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4.「人を裁くな」―自らの限界を知った者にとってのイエスの新しさ

4 「人を裁くな」ー自らの限界を知った者にとってのイエスの新しさ

4 「人を裁くな」ー自らの限界を知った者にとってのイエスの新しさ
ルカ6:27〜38、他

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1,神を視野に入れる
ールカによる福音書6章27〜38節全体を支える2本の柱


(約13分)

2,愛することは与えること
―3つの小段落から見るテーマの深まり


(約20分)

3,誰が私たちを量るのか
―神的受動型の用例から


(約5分)

4,旧約聖書が見つめる人間の限界
―詩編103編13,17〜18節と出エジプト記23章4〜5節から


(約10分)

5,イエスの存在の新しさ
―マタイによる福音書5章43〜48節から


(約11分)

聴取期限9/13

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ポイント
●「・・・とおりに、〜なさい」という表現で共通するルカ6章の31節と36節。この2節を「柱」と見た時に、切り分けられた3箇所から見出されるのは「愛すること」「与えること」を巡っての視点の深まり。
●神が主語であることをあらわす技法、神的受動型。「愛することは与えること」を語るクライマックスで、この技法が用いられることの意味を雨宮神父は説く。
●神の無条件の愛を語る新約聖書。しかし、それが人に本当に可能なのか。新約の前提となった旧約聖書の出エジプト記23:4〜5から振り返り、人間の愛の限界を見つめる。
●「愛」という言葉の用例の、旧約と新約との大きな差。この違いを生んだものは何か。聖書の民がイエスの存在に見た「新しさ」とは一体何か。

 

神は何故、「恩を知らない者、悪人」にも情け深いのか・・・?


その発想は、実は旧約聖書には無い。旧約では、主の恵みが及ぶのは「主を畏れる人」「契約を守る人」等の条件がある。

その条件はどこへ行ったのか・・・?


旧約に於いては、その条件は消えない。
「出来ないことは出来ない」と、人間の限界を冷静に見つめるのが旧約。
そして、だからこそ、
イエスの必要性が一番良く分かっていたのではないか・・・。


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