12.最終回・恐れずに立ち尽くすこと―「神学すること」の意味

「神が問われる―私たちの対話的教義学講座」(再)
2019.9.6 石居基夫・長倉崇宣

[目次]
12-1. 宗教は思考停止!?
12-2. 恐れずに立ち尽くすこと
12-3. 「神学する」ということ
12-4. 現代と神学の課題
12-5. プロテスタント神学とは


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12.最終回・「本当に、この人は神の子だった」―言葉を超えたイエスの死の深み

12 最終回・「本当に、この人は神の子だった」―言葉を超えたイエスの死の深み
マルコ15:33〜39、他

***
1,マルコによる福音書での「イエスの死」
―共観福音書の比較から


(約16分)

2,自分をからっぽにしてへりくだる
―フィリピの信徒への手紙2:6〜11から


(約18分)

3,「わが神、わが神、なぜ」
―マルコ福音書が引用する詩編22から


(約8分)

4,「その道を、イエスに従った」
―マルコ福音書10:46-52から


(約16分)

聴取期限5/9

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ポイント

  • 最終回のお話の中心は、マルコによる福音書でのイエスの死。マタイとルカは、それぞれの視点からイエスの死を描く。それでは、マルコ独自の視点とは、何か。共観福音書の比較を通して、マルコの独特の視点を浮き彫りにする。
  • 「本当に、この人は神の子だった」。百人隊長がそう語る理由は、マルコに於いては定かではない。そこで続けて、フィリピ書の「キリスト賛歌」の構造分析を通し、マルコがそのようにイエスの死を描いた根拠を探る。
  • 自分を空っぽにして従順になったキリストを、神は高く上げられた。しかし、そのイエスがマルコでは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架上で叫んでいる。この元となった詩編22から、マルコが私達に生の形で伝えようとしている「十字架を受け止めていくこと」の意味を見つめる。
  • 言葉を超えたイエスの死の深み。それをどのように受け止めるかは、どう生きるかと同じ。同じマルコの「盲人バルティマイの癒やし」から、私達の生き方へのイエスの心を探る。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)


この言葉は、「絶望の言葉」として受け取られる。しかし、それは違うのではないか。
そうとしか言いようのない現実。しかし、その中から「わが神、わが神」と呼びかける。呼びかけているということは、そこには「信頼」がある。
だからこの叫びは、希望を含んだ絶望。

他の福音書に先んじて書かれたマルコ福音書には、言葉にならない思いが込められていると感じる。
私達は、その「思いを」どう受け止めるか…?

マタイは、終末の到来の徴として、十字架のイエスを見ている。
ルカは、完全に従順になりきった人物として、イエスを見ている。

そういう単純さは、マルコには無い。
しかし、「言葉にすることが出来ない深み」が、十字架にはあるのではないか…。

マルコが見た十字架の深み。
それを、私達はどう考えるか。
イエスとは、私にとって誰なのか…。

11.「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」―自分の「欠け」とどう向き合うか

11「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」―自分の「欠け」とどう向き合うか
ルカ19:1〜10、他

***
1,「心地よい小ささ」を知る者
―「人の子」とは誰か その1


(約17分)

2,イエスにふさわしい称号
―「人の子」とは誰か その2


(約13分)

3,探す者同士が出会う「今日」
―ルカ福音書のザアカイ物語から


(約18分)

4,自分の「欠け」を何に向けるか
―マタイ21:28〜32から


(約13分)

聴取期限4/11

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ポイント

  • 今回の雨宮神父様のお話の中心は、ルカ福音書のザアカイ物語。この物語を読み解く鍵は、10節「人の子」。旧新約にわたって、この「人の子」とは何かを探り、ザアカイ物語を一層深く読み解く。
  • 旧約聖書において「人の子」は、複数の理解が絡み合って、新約につながっている。つまり、新約での「人の子」は、旧約での複層的な理解がベースになっている。
  • 「人の子」イエスが、徴税人ザアカイと出会う。この出会いとは、どういう出会いだったのか。ルカならではの表現から、そこにある神の真意を探る。
  • イエスに対して対称的な反応をするザアカイと律法学者たち。この対称性の根とは何か。もう一つの対称的な姿であるマタイ21:28〜32から、イエスの心を探る。

ザアカイは立ち上がって、主に言った。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
(ルカ19:8)

私は、これを最初に読んだ時に、「あんなことを言ってしまった…」と後悔しないだろうか、と思いました。

その時は嬉しくて思わず言ってしまった…というか。

はい。でも、私はやはり違うなと思いました。

これは、「救われていること」を感じ取っている人だからこその言葉なのです。
人は、本当に救われた時には、このように喜びを表現するのではないでしょうか。

「財産の半分を施す」と言ったから、ザアカイは救われたのではない。
救いの到来は、「財産の半分を施す」という彼の言葉によって表されているのです。

「証しの言葉」なのですね。

10.「敵を愛しなさい」―自然のままの姿を越え出る道

10「敵を愛しなさい」―自然のままの姿を越え出る道
マタイ5:43〜48、他

***
0,導入


(約4分)

1,条件付きの「敵への愛」―旧約聖書の眼差しから


(約16分)

2,無条件の「敵への愛」―ルカによる福音書6:27〜38より


(約25分)

3,「肉の人」を越え出る道―マタイによる福音書5:43〜48より


(約15分)

聴取期限3/7

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ポイント

  • 「敵を愛しなさい」。キリスト教の代名詞とも言えるこの言葉は、しかし、人間には実行不可能ではないのか。この「人間の現実」を聖書はどう見つめてきたのか、まず旧約聖書のレビ記と出エジプト記から探る。
  • 旧約全巻の中で「敵への愛」が語られているのは、たった2ヶ所。これは、人間にとって「敵を愛する」ことがいかに困難かを示す証拠。
    しかし、この旧約を踏まえているはずの新約では、状況は一変し、「敵を愛する」ことが繰り返し語られる。この「新しさ」は、何に由来するのか。ルカ福音書6:27〜38の構造から考える。
  • 「敵を愛する」ことを私たちが常に出来るわけではないのは、それが人間の自然な心の動きに反しているから。欠けと限界を抱えたままの私たちが、この主イエスの言葉に真向かう道は、どこにあるのか。マタイ福音書5:43〜48を参照し、考える。

聖書で言う「肉の人」とは?


自分を愛してくれる人を愛する・・・自分の兄弟にだけ挨拶をする・・・
つまり「自然のままに生きている人」が「肉の人」。

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:16〜17)

 
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」
この直訳は、「誰かがキリストの中にあれば、新しく創造された者」。
キリストの中にある人は、もう既に自然的なあり方を超えてしまっている。

キリストを通して、神が何をなされたか。
それをよく見つめること・・・
「敵を愛する」という生き方へ・・・。

9.「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」―何故イエスは疑う者を遣わすのか

9「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」―何故イエスは疑う者を遣わすのか
マタイ14:22〜33、他

***
1,「信仰の父」が故郷を捨てた理由
―アブラハムの生涯その1


(約14分)

2,「信仰の父」の躓き
―アブラハムの生涯その2


(約19分)

3,ディアクリノーとディスタゾー、2つの「疑い」


(約13分)

4,2つに引き裂かれた心
―マタイとマルコの「湖の上を歩く」出来事の比較から


(約15分)

聴取期限2/7

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ポイント
●旧約聖書では「信じる」よりも「探し求める」という言葉の方が多い。そしてそれ故に、「疑う」という言葉も少ない。何故、旧約の民は「探し求める」のか。アブラハムの生涯から、その背景を辿る。
●アブラハムの歩みは、その最初から「信仰の父」と呼べるようなものではなかった。躓きから始まった彼の旅を通して、彼がどのように「信仰の父」になったのかを辿る。
●新約聖書に出てくる「疑い」を意味するギリシャ語、ディアクリノーとディスタゾー。異なる意味合いを持つこの2つの言葉を吟味し、「信仰と疑い」の関係を探る。
●信じたくとも信じられない。そのような人間の現実を、新約聖書はどう見つめるのか。マタイ14:22〜33に描かれている「湖の上を歩く」出来事を、その並行箇所であるマルコ6:45〜52と比較し、「信仰と疑い」の聖書的次元を探る。


今回の聖書箇所であるマタイ14:22〜33の並行箇所、マルコ6:45〜52では、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたから」と、弟子の無理解が描かれています。
対してマタイでは、「『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」と、正反対になっている。

ペトロが舟から降りるということがなかったら、舟の中にいた人たちの驚きは無かった。

彼のその行為がなければ、他の弟子たちの驚きは無かった・・・。


マルコと同様に、理解できないままで終わってしまったかもしれません。
だから、「心が二つに分かれる」ということは、信仰者には起こるべくして起こること。

イエスはそれを知っている。

だから、ガリラヤの山で弟子たちに再び出会った時に、
彼らが疑っていたことを知っていて、宣教に派遣したのではないか…。