04.楽園と失楽園―本来の私と現実の私

人はなぜ救いを必要としているのか。そう感じるのか。
人間という存在の意味を旧約聖書創世記のアダムとイブの話から考えるのが今回のテーマです。
キリスト教って何かとすると「罪」「罪」っていうから嫌だというご意見もあるでしょうが、岩島神父はこう言われるんです。人間は楽園には生まれているわけではないと。私たちの底にある「何か」を考えていきます。

 

目次
4-1.被造物であること
4-2.楽園における本来の人間の姿
4-3.失楽園状態の始まり
4-4.原風景としての楽園と失楽園
4-5.失楽園という歴史


 

4-1.被造物であること
この世のものは全て限りあるもの、無常なもの。
しかし、形あるものはいずれ壊れ、死を迎えるということだけなのか。

〈この世のもの〉〈人〉との関わり。
それだけでは、人の心に隙間が出来る。

「何か大切なものが足りない…」
祈る心。

それは”被造物感覚”(ルードリッヒ・オットー)。
そして創造主を信じるということは、
同時に自分が造られたものであると感じること。

この姿勢は、聖書全体にわたって続いている。

番組を聞く(約8分)

 

4-2. 楽園における本来の人間の姿

人間の何たるか。

「主なる神は土のちりで人を造り、
命の息をその鼻に吹き入れられた。
そこで人は生きた者となった。」(創世記2章7節)
神は神の命を与える。
そして人は「生きた者」になる。

「園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。」(2章9節)
神の意志、その心につながる木。
これが神と人との関係、楽園の本質。

「『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。
男から取ったものだから、これを女と名づけよう。』」(2章23節)
人は助け手を得て初めて人となり、楽園は完成した。
あばらから採った骨…「私の本当のこころ」。

「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」(2章25節)
裸、それは自分のありのまま。
この楽園の姿は、本来の人間の姿を提示している。

…ところが、現実の人間はこうではない。

番組を聞く(約17分)

 

4-3. 失楽園状態の始まり

彼らは園の中央にある木の実を食べた、蛇の誘惑によって。
そして楽園の崩壊が始まる。

「ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」(3章7節)
目が開けた…確かに賢くなった。
彼らは光しか知らなかったのだから。

近づく死の影…
「人はパンのみに生きるにあらず」
パンだけで生きている者はすでに死んでいるのだ。

おかしくなっていく神と人との関係。
「『あなたはどこにいるのか』。
…『園の中であなたの歩まれる音を聞き、
わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです』。」(3章9-10節)

神と人との間のわだかまり。
さらに責任転嫁が始まる。

「『わたしと一緒にしてくださったあの女が、
木から取ってくれたので、わたしは食べたのです』」(3章9-10節)

呪いのような神の言葉が続く。
しかし正確に言うと、これこそ人間の現実。

神の似姿としての人間の中心
…自由、理性、意志。
しかしそれが、こういう没落を作っていく。

塵から塵へ…
神の命を生きなければ、死んだも同然ではないか…

番組を聞く聞く(約20分)

 

4-4. 原風景としての楽園と失楽園

人の原罪。
そして「死」が入り込んだ。
人の死の影の谷を歩む現実、神の命を生きられない現実がある。

これこそが「失楽園」。
そして人はもやは楽園には戻れない。
キリスト教が「救い」ということを言うとき、その前提として人間は救いのない状態に置かれているという認識がある。

確かに現実として、人は楽園に生まれるのではない。

原罪、そして福音。
テーゼとアンチテーゼ。

しかし…
死が入り込んだというこの現実の中でも神は人間に守ろうとする。
女の名はイブ(命)

同じ人間の中にある
善を望む自分と望んでいない悪を行う自分。

自分の中にある楽園と失楽園。
本来の私と現実の私。

人はなぜ救いを求めるのか?

番組を聞く(約9分)

 

4-5. 失楽園という歴史

人間が楽園から追われたということは、人間の歴史は罪の歴史だということ。

それに続けて聖書は語り続ける…
アベルとカインは人殺しの話。
ノアの洪水は自然破壊の話。
バベルの塔は文明社会の罪の話。
そして世界に罪が広がり、悪がはびこる。

これは、今の新聞の一面、二面、三面に全部出てくる。
結局、世の中の現実を描いているではないか。
そして、この「わたし」も容易く罪に染まる。

「原罪、人間の闇」と「私の罪」

罪。
聖書の最初の「はじめに神は」がぶったぎられている現実としての失楽園。
聖書的には「死」とさえ言われる。

これは、誰にとっても根本的な大問題である。

番組を聞く(約13分)

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incl_img_03*原罪というけれど、「なんでアダムが木の実を食べたからって私まで原罪を背負って生まれてこなければいけないんだ!」って、確かに私も、心のどこかで思っていたかもしれない。
一般常識で考えたら、他人の罪を生まれながらに背負って生きるなんて、とてつもなく理不尽な話じゃないですか。

う〜ん、ちゃんと考えると、これまで信じてきたはずなのに、わからなくなってしまいそうです。

「そんなの嫌だ!」って思いたいけど、確かに、楽園(=原罪のない状態)には生まれていないのが現実。
アダムとエバと同じで、嘘はつくし、ごまかすし、愛せないし・・・
自分ばっかりじゃなくて、この社会もそう。

そんな失楽園状態な私たちを、自分から楽園を追い出しておいて、自分自身が命をかけて傷ついてまで救ってくださった神様。
その「なんで?」はやっぱりわからないままなんだけど、原罪を負っている自分は、知れば知るほど惨めで、ちゃんと考えると、生きているのが辛くなるくらい。
だからこそ、やっぱり自分には「救われる」ことが必要なのかなって。

神父様の話を聞きながら、まだはっきりとは受け止めきれていないけれど、
「原罪」も「救い」も、今まで自分が思っていたよりもずっと深く広く、
自分自身に、そして、世の中全体のことに関わっていることだったんだなあって新しい発見でした。