10.イエスの教え1―神様は『善き方』

今回のテーマは「神はとことん善き方と信じる」。
しかもこれが主イエスの一番の根っこにある、「特別」な事柄なのだと…

とても当たり前のようでいて、実は決してそうではないことなのだと気付かされます。
そしてキリスト教って、本当にユニークな信仰なんですね。


 

目次
10-1. イエスの教えの中心
10-2. イエスとその神
10-3. イエスの使命
10-4. イエスが伝えようとした神の新しさ
10-5. 神は愛なり
10-6. 神のもうひとつのイメージ
10-7. 神はとことん善き方と信じる


 

10-1. イエスの教えの中心

「神様について」ということに尽きる。

番組を聞く(約8分)

 

10-2. イエスとその神

・特別の神との関わり
自身の使命と存在意義の基盤

・イエスの説いた神=イエスが父とした神

「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。
どうか、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」
(マルコ十四章三六節)

「アバ」という言葉…幼児語

ゲッセマネの祈り:イエスが受難に赴く前に独りで祈った祈り
神との特別な絆…危機的状況で、最もひたすら本気の祈りで限りなく優しい「アバ」という言葉を使う

番組を聞く(約15分)

 

10-3. イエスの使命

「すべての事は父からわたしに任せられています。
そして、子を知る者は父のほかにはなく、
父を知る者は、子と、父をあらわそうとして
子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」
(マタイ十一章二五~二七節)

本当はあなたが誰であるか、わたししか知りません

誰にも知られていないこの父を現す=イエスの使命

番組を聞く(約11分)

 

10-4. イエスが伝えようとした神の新しさ

「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、
良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、
求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」
(マタイ七章十一節)

イエスが伝えようとした神の新しさ

天の父はただただひたすら人間に良いことだけを望む

番組を聞く(約7分)

 

10-5. 神は愛なり

「取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、
『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』と言った。
そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった」
(ルカ十五章一~三節)

<譬え話の主題>
a) 百匹の羊を持っている者がいて、一匹が迷ったら九九匹を放ったらかしてとことん捜し回るたとえ

さらに

「見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、
『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。」(五~六節)

「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、
悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」(七節)

[なぜ?]
神様が大喜びしてる???
我々虫けらみたいな者がどうしようが、
それで神様が大喜びするっていう発想自体よくわからない

∴わたしはそういう神様を伝える務めを持っているから、
そういう人たちと一緒にいるのは当然じゃないか…あなた方は神様にとってはそういう存在

b)放蕩息子のたとえ
親から金をもらって勝手に使い果たして飢え死にしそうになって
「俺は何やってるんだ、父の家に帰ろう」と。

その時に

「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、
哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」(二十節)


この父親は息子を赦した。

息子は言う。

「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。」(二一節)

[しかし]
一度も彼に対して怒ってないんだと思う
<息子から見る>と悔い改めをした時、確かに赦されてる
けれども、<この父親から見る>と赦すも赦さないもない…愛の過程

番組を聞く(約12分)

 

10-6. 神のもうひとつのイメージ

・ぶどう園の主人

「彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
…『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。」
(マタイ二十章二~四節)

十二時、三時、そして夕方五時にも出ていって

「『何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、
その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。

さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、
『…最後にきた人々からはじめて順々に…賃銀を払ってやりなさい』。
そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。

ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、

そこで彼はそのひとりに答えて言った、
『…わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ」(六~十四節)。


人が「私はこれだけの功徳を積みました」とこだわっている間は神の国を受けることができない

∴イエスが説く福音というのは
「わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。」
神様はそういう方ということ

番組を聞く(約8分)

 

10-7. 神はとことん善き方と信じる

イエス自身が説き、父とした神…とことん人を一人一人大切にしている神
そのことを信じること

そのことはキリスト以外では信じられない

[なぜか?]

キリスト教の信仰…キリストの伝えたことを受けとめ、信じる
ただこのことはそれだけに終わらない

神様を本当に信じ受けとめるということは
自分自身の生き方の変更を要求されている…

番組を聞く(約4分)

 

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*善き方?そら神さまなんだから、悪い方ではないだろう。って思いましたけど、そういうお話ではなく、むしろ、そんな小さな対比で語られるような中身ではありませんでした。

イエス様が語られる、神さまについてのたとえ話。
100匹の羊、ぶどう園の労働者、放蕩息子。
よく聞く話ですけど、なんだかたとえ話にしては「いびつ」な気がするんですよね。。。

迷った羊1匹を捜すのはいいけど、残りの99匹はどうなるんだ?とか。
ぶどう園の給料の支払いにやっぱり合点がいかない、とか。
放蕩息子の兄さんは、どうにもかわいそうだとか。。。
私はいろいろと考えてしまいます。

どれもなんだか、割り切れない話ばっかり。
もっと平等に扱うのが正しいのでは?
って思わずツッコミをいれたくなるような感じというか。
例えば道徳の教科書には絶対載らないですよね。
普通の、「美しい物語」では全然ないと思うんです。

でも、岩島神父さまはそういう神様を「善い方」と仰る。
むしろ、「私にばかり」、その不平等さ、贔屓っぷりが「善」。

考えてみれば不思議なことだと思います。
なぜそこまで?って。
しかし、それがイエスさまが私たちに伝えてくださる神さまの姿。
まるで私しか見ていないかのような父親の姿でした。

「いびつさ」は、むしろ私のこころの姿にあるんでしょう。
全幅の信頼のうちに主イエスは天の父を、「アバ」と素直に呼びました。
私が考えていたような、良いだとか悪いだとか、って
全然的外れだったなあって思います。