12.イエスの生き方 1― 貧しい人々との連帯

前回のイエスの教えに続くシリーズで、
その生き方は実は一つのことであると岩島神父は仰います。
あの十字架に向かわれる生き方全体が、教えの根本でありシンボルで
「御言葉は肉となって、わたしたちのうちに住まわれた」ということだと。
そして、イエスの眼差しの先にあるのは虐げられた人々…
私たちの生き方が問われています。


 

目次
12-1. 神様の御心を徹底して生きる
12-2. 存在全体が神の言葉
12-3. イエスの志、神の御旨
12-4. 試されるイエスの教え、生き方
12-5. 自分の力を自分のために使うか、人のために使うか


 

12-1. 神様の御心を徹底して生きる

「山上の説教」の精神:神様の御心を徹底して生きなければ何の意味もない

・イエスと律法学者との対話(ルカ10:25~37)

イエス

「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか。」(26)

律法学者

「『心をつくし、精神をつくし、
力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』
『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります。」(27)

イエス

「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。」(28)
「あなたも行って同じようにしなさい。」(37b)

番組を聞く(約15分)

 

12-2. 存在全体が神の言葉

・イエスは教えを説いただけでなく、自分の〈生き方〉で示した。

「御言葉は肉となって、わたしたちのうちに住まわれた」(ヨハネ1:14)

イエスの存在全体=神の言葉→
十字架:全ての人のため自分の命をささげ尽くす。
∴十字架はイエスの教えの根本・シンボル。

番組を聞く(約9分)

 

12-3.イエスの志、神の御旨

・イエスの生き方

マルコ2:13~17

イエスは…アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、
「わたしに従ってきなさい」と言われた。
すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。
多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、
イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、
弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

マタイ21:28~31

ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、
「子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ」。
すると彼は「おとうさん、参ります」と答えたが、行かなかった。
また弟のところにきて同じように言った。彼は「いやです」と答えたが、
あとから心を変えて、出かけた。
このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。
彼ら(祭司長や長老)は言った、「あとの者です」。
イエスは言われた、
「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる」。

イエスの志

『わたしがきたのは、義人を招くためではなく
罪人を招くためである』=神の御旨

イエスの生き方

一番大切なことは「人間」(イエスの「人間愛」)…福音の〈鋭さ〉

教会はこの聖書の言葉を、どこまで本気に取っているか?

番組を聞く(約18分)

 

12-4. 試されるイエスの教え、生き方

姦淫の女の話(ヨハネ8:1~11)

ヨハネ8:6~11

イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、
ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、
「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。
イエスは言われた、
「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた」(6)
→最も大切な箇所:イエスの姿、神の心

義人と罪人の境界線とは何か?
→「ここに立っている女と、どれだけの差があるのか?」

イエスの人間愛は誰が義人で罪人かはもう関係ない。
しかし、自分を正しいと思い込んでいる人は
「丈夫な人には医者はいらない」となる。

番組を聞く(約13分)

 

12-5. 自分の力を自分のために使うか、人のために使うか

聖書の根本的な教え:「貧しくあれ」…キリスト教の伝統

誰もが求めるもの=富、名誉、権力
しかし、多くの場合人を踏み台にして築いている。

→キリストの教え:「全然違うように生きなさい」
「力」の使い方の方向…自分のために使うのか、人を生かすために使うのか

番組を聞く(約10分)

 

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*今回の神父様のお話で衝撃的だったのは、
「もじもじするイエス様」!

あの有名な、姦淫の最中に捕らえられた女の話のところで、
イエス様はただしゃがんで地面に何かを書いておられた。

これまで、ここでイエス様が何をしておられたかということについて、
いろんな解釈を聞いてきたけど、
神父様は「ただもじもじしていたんじゃないか」って言うんです。

しかも、それがイエス様の大切にしておられた人間愛であって、
神の御心であるのだ、と。

えっ!?どういうこと?

神父様が言うには、私たちはどこかで自分が正しいと思っている。
ここで女を捕らえて来た人々もそう。
たしかに、私もいつも無意識のうちに、
どこかで自分は正しい人間だって思い込もうとしている。
あの人よりはマシだろうとか心の中で言い聞かせている。
でも、それは「罪を作っている」ことなのだ、と。

う〜ん。
「正しさ」って一体何なんでしょう。

お話を聞いていて思ったのは、結局、
他人よりいつも優位に立っていたいってことなのかなって。
信仰のことですら、自分が少しでもわかってるふりをしたいし、
私の心の中には、他人を自分の思い通りにしたい欲求とか、
多く自慢できるものを持っていたいとか、
人を貶めてでもそうでありたい自分がいるのです。

それって、冷静に考えてみると、
誰かを踏み台にして、知らないうちに傷つけている・・・・

そうすると、この自分の存在そのものが罪なんだなって、つくづく感じるのです。
そして、その「罪の現場」で、私は自分が間違っているということに気づかずにいる・・・。
そこでもしもすぐに断罪するのが神様なら、私は救われない。

つい答えを求めてしまうし、いつでも変わらないはっきりとした
「正しさ」を求めてしまうけれど、そうではないのかもしれないな。。。
「正しさ」によってではなくて、神様の心によって救われるっていうことだから。

そんな神様の姿はまるで「もじもじしている」ようだけど、
実は限りなく強い私たちへの憐れみなのかもしれないと思いました。