13.イエスの生き方 2― 敵対者との論争

イエスの生き方シリーズの二回目。
今回は次第に対立を深めていった律法学者や、
パリサイ人といった当時の宗教者との論争に、
イエスの行き方の根っこというべきものを考えていきます。
現代の私たちにもまた、2000年前と少しも変わらずに今問われている問いとして…


 

目次
13-1.「つまずき」としてのイエスの福音
13-2.「神の教え」の根底にあるもの
13-3.「神の教え」を無にする人間の罪
13-4. イエスの宮きよめ
13-5. 最も重要なものが失われている


 

13-1.「つまずき」としてのイエスの福音

ルカ2:34-35
この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、
また反対を受けるしるしとして、定められています。
…それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです。

イエスの説く福音:救いである一方で、ある人々にとってはつまずき

反対を受けるしるし:敵対者との論争

番組を聞く(約6分)

 

13-2.「神の教え」の根底にあるもの

マルコ1:22,27
人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、
権威ある者のように、教えられたからである。
…人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、
「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。
けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。

・イエスの権威とは何か
…論争物語(律法学者やパリサイ人との律法論争)

論争その1:安息日規定

マルコ3:1-6
イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。
人々はイエスを訴えようと思って、
安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。
すると、イエスは片手のなえたその人に、
「立って、中へ出てきなさい」と言い、
人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、
命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。
彼らは黙っていた。イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、
その心のかたくななのを嘆いて、
その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。
そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。
パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、
なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。

→律法は父である神の意向に従って理解すべき

ヨハネ5:17
(安息日に人を癒したことを批判するユダヤ人に対して…)
わたしの父は今に至るまで働いておられる。
わたしも働くのである。
→神様はいつも善き方。例外はない。

∴律法論争:律法の中身は大切だが、
枠組みは人間が作ったものに過ぎない
(律法学者であったパウロも福音に触れた時に
律法では人は救われないと理解した)

番組を聞く(約24分)

 

13-3.「神の教え」を無にする人間の罪

論争その2:清さ・汚れ

マルコ7:1-8
さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが
…イエスのもとに集まった。そして弟子たちのうちに、
不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、
昔の人の言伝えをかたく守って、
念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。
…なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、
昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。
そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、
「なぜ、あなたの弟子たちは…不浄な手でパンを食べるのですか」。
イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、
こう書いているが、それは適切な預言である、
『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

マタイ23:27-28
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。
あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、
内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、
内側は偽善と不法とでいっぱいである。
→外面的なことばかりを大切にすることは、むしろ腐っていると言える

マタイ5:17-18
あなたがたも、外側は人に正しく見えるが、
内側は偽善と不法とでいっぱいである。
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、
律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
→神の掟は神の心によって完成させないといけない

番組を聞く(約17分)

 

13-4.イエスの宮きよめ

マルコ11:11、15-18b
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。
そして、すべてのものを見まわった後、
もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
…それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、
宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、
両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
そして、彼らに教えて言われた、
「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』
と書いてあるではないか。それだのに、
あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。
→集金マシーンとしての神殿を批判

cf. イエスは言われた、
「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
(マタイ22:21)

番組を聞く(約12分)

 

13-5.最も重要なものが失われている

・自分の所有に拘る者…政治家、金持ち、宗教家…方向が間違っている

マタイ6:31,33
何を食べようか、何を飲もうか、
あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
まず神の国と神の義とを求めなさい。
→物のあふれる中で、キリストの言葉である
「全世界をもうけても、その魂を失っては何の益があろうか」
といった最も重要なものが自分の中で失われているのではないか?

∴「まず神の国と神の義とを求めなさい」

番組を聞く(約5分)

 

目次に戻る
incl_img_03
*「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」
岩島神父はこのみことばに触れて、

「ここでイエスが言いたかったのは神のものは神にという事だけでした」
と説かれました。

正直、ハッとしました。
なんだか自分はここのみことばを頓智話のように聴いていたな、と。
イエス様からしたら「どうでもいいもの」
ばかりを聴こうとしていたのではないか、
本質的なところからズレていたのではないか、そう感じました。

そしてその後に、
政治家が権力の所有にこだわるように、
お金持ちがお金にこだわるように
「宗教家」は「善」の所有にこだわるんだ、
というお話があったんですよね。

これは私に向けられているな、と感じました。
「わかっているつもり」が、
どれだけ人を窮屈にして、傷つけただろうか。
なんだかんだ自分は善の側だと思っているんです。
しかし、振り返れば、
これが偽善という事なのだなと思わされる。

イエス様は唯だ神様の事を「善」そのものであるお方だ、と伝えました。
岩島神父が言うように、唯だひたすらなのだと思います。
一体誰に向けられたメッセージなのか。
それは何より、偽善者のため。私のため…。
今回は、驚くぐらいとても根本的な事を見つめ直させられました。