14.イエスの生き方 3—人の力を超える運命

イエスの生き方シリーズの三回目。
今回は受難・十字架へ向かうイエスの姿から学びます。
ガリラヤ宣教、そして「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
との十字架上にも一貫していたイエスの祈り、その歩み。
なぜこのお方が私たちの主であり、
また師であると教会は受けとめてきたのでしょうか…。


 

目次
14-1. 神に向かう人間の原形
14-2. イエスの生きる軸、祈り
14-3. アクションからパッションへ
14-4. 闇が押し潰した愛
14-5. イエスは私たちの道


 

14-1. 神に向かう人間の原形

ヘブル5:2
彼は自分自身、弱さを身に負うているので、
無知な迷っている人々を、思いやることができる

ヘブル5:7
キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、
ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、
そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。
ヘブル5:8~9
彼は御子であられたにもかかわらず、
さまざまの苦しみによって従順を学び、
そして、全き者とされた…。

・まことの人、イエス
…神に向かう人間の原形

ヘブル12:2
信仰の導き手であり、
またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。

・イエスご自身の身をもって示されたメッセージ:イエスの受難と十字架
…イエスにとっても手に負えない事柄

【キリストを信じることの意味】

番組を聞く(約14分)

 

14-2. イエスの生きる軸、祈り

ルカ10:21
天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。
これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、
幼な子にあらわしてくださいました。
父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。

マルコ14:36
アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。
どうか、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。

・イエスの祈りの本質
いつでもイエスは祈り、神の御旨は何なのかをフィードバックする必要があった。
そして神の意思を我が身に刻々実現していく。

∴「信仰の導き手、完成者」イエス

番組を聞く(約16分)

 

14-3. アクションからパッションへ

マルコ3:6
イエスを殺そうと相談し始めた

イエスの見通しのズレ:宗教当局の反発・群衆の離反・弟子の無理解

マルコ8:31-32
人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、
律法学者たちに捨てられ、また殺され、
そして三日の後によみがえるべきことを、
彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された。

「自分の使命」の受け止め直し:受難と十字架へ

・アクションからパッションへ
宣教の行き詰まり

父なる神がわからなくなるイエス

新しい段階へ
受難(パッション=受けとめる)

番組を聞く(約20分)

 

14-4. 闇が押し潰した愛

ルカ22:53
今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である。

キリストの根本は神様の限りない慈しみと赦しなら、
闇が愛の力を押し潰すのに抵抗できるのか?

マタイ5:39
だれかがあなたの右の頬を打つなら、
ほかの頬をも向けてやりなさい。

愛を伝えるのに、最終的には愛しかない。
∴それは自分の持っている力をどう使うか。

マタイ4:3~9、抜粋
もしあなたが神の子であるなら、
これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。
もしあなたが神の子であるなら、
下へ飛びおりてごらんなさい。
もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、
これらのものを皆あなたにあげましょう。

イエスが誘惑を受けたこと自体、イエスが人間である証し
<誘惑の本質>全てを自分のために使うこと

罪の力にそのまま押し潰されていくイエス

番組を聞く(約10分)

 

14-5. イエスは私たちの道

マルコ15:34
わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。

ただ一貫していた祈り

ヘブル5:7
激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、
祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。

ルカ9:23
日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
ヘブル5:8
苦しみによって従順を学び…

神が分からなくなって死んでいったイエスの道
∴不条理、行き詰まり、
苦しみの現実の中にいる私たちも歩むことが出来る道

キリストの運命を共に歩むということが可能になる
【自分の生き方と合わさった信頼】

番組を聞く(約5分)

 

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*今回は今までで一番いろんな事を考えたかもしれません。
岩島神父がおっしゃるには、

「イエスご自身にとって、受難・十字架は
手に余る出来事であった。」

正直、私にはショッキングに聞こえる言葉でした。
だって、神さまですからね…。

その気になれば、嵐を叱りつけて止め、
山でさえ動かしてしまう方を、
果たしてそんな「過小評価」していいの?
畏れ多くない、、、?って思うんです。
第一、その十字架の死から復活したじゃないかって。
怖いものなど無いだろうと。

だけど、実際に聖書を読むと
岩島神父が言うように、
人間イエスが、本当に苦しんで苦しんで
絶望の中で祈り尽くしている姿がある。
もはや自信なんて無くて、傷ついて、
憐れみを神さまにただ乞うている姿。

そこには、こちらが過小評価するまでもなく
実際に小さくされてしまったイエスがおられました。
それは他の小さな者のため。
私の罪をそのまま担うため。

むしろ、ショッキングだったのは、自分の罪が
本当にこのイエスを傷つけているのだという生々しさでした。
復活された御方とはいえ、
苦しみの中で注がれつづけていたそのイエスの深い想いを、
私は少しでも感じていただろうか。
全然・・・だったと思います。

結論のようなものを安易につかんでしまわず、
この御方の事をもっと求めていきたいです。
そこにこそ、本当の復活の喜びもあるのでは。
そう痛感しました。