15.受難—いばらの冠が教えるもの

神の子イエスの受難と死。絵画や小説、映画にもなったこの出来事は、
しかし、人間の想像力を越えています。
「皆、わたしにつまずく。」
イエス自身、そう語るこの出来事の本質に近づくためには、どうすればよいのか。
今回、岩島神父と共に、このことを黙想し、味わいましょう。


 

目次
15-1. 父なる神と私とを結ぶもの
15-2. イエスの受難の黙想—無意味さの中へ
15-3. イエスの受難の黙想—かろうじて成立した契約
15-4. イエスの受難の黙想—ありとあらゆる者に見捨てられる過程
15-5. 何かただならぬもの・神の愛


 

15-1. 父なる神と私とを結ぶもの

キリスト教にとって最も大きな信仰の根
…キリストの受難と死

・マルコ14:22,24
「これはわたしのからだである」
「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」
…最後の晩餐、
「本当はあなたが死ぬべきところを、代わりにわたしが死にます」

ミサとして今日も記念されているキリストの死、
その時流れた血。

・ローマ3:24,25
「彼らは、価なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、
信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。」
…キリストという犠牲・あがない。


父なる神と私との間を結ぶ、キリストの苦しみと死。
…その根は、私たちの根本的な苦しみ・罪。

番組を聞く(約20分)

 

15-2. イエスの受難の黙想—無意味さの中へ

・マルコ14:26~31
「彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、
『あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう…』。
するとペテロはイエスに言った、
『たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません』。
イエスは言われた、『あなたによく言っておく。
きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、
そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう』。
ペテロは力をこめて言った、
『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、
あなたを知らないなどとは、決して申しません』。
みんなの者もまた、同じようなことを言った。」
「皆、わたしにつまずく」
…イエスにとってのギリギリの道、もはや孤独で入っていくよりない道

・マルコ14:32~36
「一同はゲツセマネという所にきた。
そしてイエスは弟子たちに言われた、
『わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい』。
そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、
恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、
『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。
ここに待っていて、目をさましていなさい』。
そして少し進んで行き、地にひれ伏し、
もしできることなら、
この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、
そして言われた、
『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。
どうか、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、
みこころのままになさってください』。」
「恐れおののき、また悩みはじめて…
『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。』」
…旧約聖書の約束の実態、ゲッセマネ。

どんづまりの場所…受難の道、無意味なものに進まれるイエス

人は何故苦しむのか

苦しみを共に担う神

・ヨハネ1:14
「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」

番組を聞く(約14分)

 

イエスの受難の黙想—かろうじて成立した契約

・マルコ14:37~42
「それから、きてごらんになると、
弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、
『シモンよ、眠っているのか、
ひと時も目をさましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。
心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
また離れて行って同じ言葉で祈られた。
…三度目にきて言われた、
『まだ眠っているのか、休んでいるのか。
もうそれでよかろう。時がきた。
見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。
立て、さあ行こう。
見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた』。」
眠る弟子達。眠りに逃げる、素面でいられない。
…その弟子にさえ慰めを求めるイエス。完全な孤独。

・マルコ14:36
「この杯をわたしから取りのけてください。」
…納得できない。
無理やりに最後まで神の意思として飲み干した杯。


・ルカ22:20
「この杯は、あなたがたのために流す
わたしの血で立てられる新しい契約である。」
ゲッセマネのイエスの苦しみの根
…愛する者が自分を殺そうとする。その罪をあがなう。
…孤独・不条理・苦しみを体験する神

私たちの闇や罪に先回りする神

・マルコ14:42
「立て、さあ行こう。見よ。
わたしを裏切る者が近づいてきた。」
…絶望に向かう勇気

番組を聞く(約10分)

 

15-4. イエスの受難の黙想—ありとあらゆる者に見捨てられる過程

裁かれ、叩かれ、捨てられるイエス。
大祭司、長老、下役、ピラト、異邦人…。

行き着く先は十字架の死
…そこにある、人の罪。ご都合主義・卑怯さ・残忍さ。

あらゆる不純なものがイエスに被さる
∴ 「人の罪を背負って」

鞭打ち:死の始まり
…人の悪意からの攻撃で、
体を破壊され、最終的には殺される。

番組を聞く(約17分)

 

15-5. 何かただならぬもの・神の愛

・ヨハネ15:13、最後の晩餐でのイエスの言葉
「友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」
自分が大切にする人のために自分の命を全部ささげる
=神がその愛を現す方法はこれ以外に無い


自らの死と苦しみによるイエスの証印

番組を聞く(約5分)

 

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私は昔、この家に生まれたくなかったなあ。
よその家の子に生まれたかったなあと思うことがよくありました。
教会に来てからも、小さな頃から教会に連れてきてもらえていた人は羨ましいなあと思っていました。

今ではあまりそんなことも考えなくなりました。
でも、時折、似たようなことを感じることがあります。

「どうして自分がこんな言われ方をしなければならないのか」
「なぜ誰もわかってくれないのか」
「こんなこと、自分が到底できるとは思えない」

そんな辛さを感じるとき、
思わずこの人生を投げ出したくなって、
誰かと代わってもらいたくなって、
「この杯をわたしから取りのけてください」
という言葉が、自分の祈りになることがあります。
必死な心です。

「この杯をわたしから取りのけてください」
こう祈ったイエス様の杯とは、ご自身が人々から嘲られ、十字架につけられてしまうこと。

岩島神父様は、この時はイエス様もギリギリだったというのです。
その苦しみの意味を、イエス自身すら見出せていなかった。

それは、私が苦しみに遭うときと、どこか似ているかも知れない。
そんな風に親近感を覚える一方で、「そんなはずはない」と思いました。
イエス様であるからには、ご自身の運命を分かっていて、
力強く十字架へ向かって歩みだしていったはずだ・・・

聖書にそう書いていないのに、いつの間にか、そう信じたい自分がいます。

しかし神父様は、イエス様は非常に弱い存在として、絶望に向かっていったのだと言います。
無理矢理に、神の意思として受け止めていった。
「どんなに私たち一人ひとりが大切か示すために、そうなさった」と。

「共にいてくださるイエス」
これまでは、単なる慰めの言葉としか受け止めていませんでした。
けれども、
「この杯をわたしから取りのけてください」
私がそう祈るときの杯は、もうイエス様が飲み干してくださっていた。
それが実際だったのだということが、今回の大きな驚きでした。

この人生がそういう歩みなら、喜んで生きていきたいとなんだかスッキリしました。