16.キリストの復活—主キリストとの出会い

キリスト教の中核。それは復活の主イエスとの出会い。
教会でも繰り返し語られるこのことは、
しかし、人の理解や常識を越えた出来事です。
これが「分かる」とはどういうことなのでしょうか。
その核心に一体何があるのでしょうか。
人生を変えてしまう「出会い」を見つめます。


 

目次
16-1. 人を180度、完全に変えてしまう出会い
16-2. 出会いとはどういう事柄であったか
16-3. 「わが主よ、わが神よ」
16-4. 信仰の起点、そして今も信仰の中心


 

16-1. 人を180度、完全に変えてしまう出会い

1コリント15:14、17
「もしキリストが復活しなかったなら、信仰はむなしい」
…信仰の中心、その意味

使徒1:3
「イエスは苦難を受けたのち、
自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、
四十日にわたってたびたび彼らに現れて、
神の国のことを語られた。」

イエスをかつてなかったほどに身近に感じ、
自分と共にいて、働きかけている体験、「出会い」。

〈パウロ〉
使徒9:3~6
「突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
彼は地に倒れたが、
その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』
と呼びかける声を聞いた。
そこで彼は『主よ、あなたは、どなたですか』と尋ねた。
すると答があった、
『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
さあ立って、町にはいって行きなさい。
そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう』。」

ガラテヤ1:15~16
「み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、
異邦人の間に宣べ伝えさせるために、
御子をわたしの内に啓示して下さった」

有無を言わせない体験。パウロの存在を支える「出会い」。

〈マグダラのマリア〉
ヨハネ20:11~16
「しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。
そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
白い衣を着たふたりの御使が、
イエスの死体のおかれていた場所に、
ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
すると、彼らはマリヤに、
「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。
マリヤは彼らに言った、
「だれかが、わたしの主を取り去りました。
そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
そう言って、うしろをふり向くと、
そこにイエスが立っておられるのを見た。
しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
イエスは女に言われた、
「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。
マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、
「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、
どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。
わたしがそのかたを引き取ります」。
イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。
マリヤはふり返って、
イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。
それは、先生という意味である。」

イエスの死、マリアにとっての終着点。

「別の方向」への語りかけを受けるマリア。

「マリヤよ」
「マリヤはふり返って、
イエスにむかってヘブル語で『ラボニ』と言った。」


人を完全に変えてしまうキリストとの「出会い」

番組を聞く(約32分)

 

16-2. 出会いとはどういう事柄であったか

ヨハネ20:19
「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、
弟子たちはユダヤ人をおそれて、
自分たちのおる所の戸をみなしめていると、
イエスがはいってきて、
彼らの中に立ち、「安かれ」
(あなたがたに平和)と言われた。」

ユダヤ人への恐れ、閉じられた戸
拒絶、人間の中にある「不安」

そのただ中に現存したイエス【出現】

「あなたがたに平和」

ヨハネ20:20
「そう言って、手とわきとを、
彼らにお見せになった。
弟子たちは主を見て喜んだ。」
手とわき=十字架の傷口
…あのイエスご自身【確認】

ヨハネ20:21~23
「イエスはまた彼らに言われた、
「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、
わたしもまたあなたがたをつかわす」。
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、
「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、
だれの罪でもゆるされ、
あなたがたがゆるさずにおく罪は、
そのまま残るであろう」。」

聖霊
…イエスを生かしていた、
神の命そのもの【聖霊が与えられる】

「赦された」という経験【罪が赦される】
…イエスとの出会いにおいて、
弟子たちがまず最初に経験したこと。
自らの負い目、過ち、裏切りなどからの解放。

「この自分が赦される。」
この「赦し」を他の人に持っていく
…宣教【使命が与えられる】

番組を聞く(約19分)

 

16-3. 「わが主よ、わが神よ」

ヨハネ20:24~28
「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、
イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
ほかの弟子たちが、彼に
「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、
トマスは彼らに言った、
「わたしは、その手に釘あとを見、
わたしの指をその釘あとにさし入れ、
また、わたしの手をそのわきに
さし入れてみなければ、決して信じない」。
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、
トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、
イエスがはいってこられ、
中に立って「安かれ」
(あなたがたに平和)と言われた。
それからトマスに言われた、
「あなたの指をここにつけて、
わたしの手を見なさい。
手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
トマスはイエスに答えて言った、
「わが主よ、わが神よ」。」

「不信仰者」トマス

「わが主よ、わが神よ」
…この信仰告白にあった体験とは

番組を聞く(約4分)

 

16-4. 信仰の起点、そして今も信仰の中心

キリストとの出会い
…曖昧でない。人を完全に変えてしまう体験。

実存的にものすごいこと:
聖霊を受ける、赦しの体験、
使命を受ける、宣教の開始、教会の誕生…。
…「ビッグバン」


復活:信仰の起点、キリスト教信仰の特徴
…イエス・キリストそのものと結ばれる

番組を聞く(約10分)

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*今回、岩島神父さまは、主イエスとの出会いのプロセスをお話しくださいました。
神父様のお話を思い切って単純化しちゃうと…
「出現→(主イエスであるという)確認→聖霊が与えられる→使命が与えられる」

ふつう、主イエスとの出会いと言われて思い浮かべるのは、
一番最初に聖書を読んだ時とか、教会に行った時かもしれません。

自分のことで恐縮ですが、私の主イエスとの出会いは、よく人から「劇的」と言われます。
でも、自分では見えない部分があるんですよね。
だって、「聖霊が与えられる」、「使命が与えられる」・・・これは、自分の目には見えません。
でも、いつの間にか与えられている。

放送を聞いてから、私の主イエスとの出会いを考えてみると、
実は、自分で「見えている」と思っていただけで、
本当は、その一番最初から、「見えない」のかもしれないって思いました。

例えば、喧嘩してもう顔も見たくないと思っていた人のことを、
祈ったら、早く謝りたいと思うようになったことがありました。
自分の感情ではまだ腹が立つのに、イエス様を思う時に、そうせざるを得ない。
考えたら、ものすごく不思議なことです。

その最中には、分からないんです。
でも、あとで分かってくる。

「出現→(主イエスであるという)確認→聖霊が与えられる→使命が与えられる」
というプロセス…。

その時には、気づかないし、見えない。
でも、目に見える劇的なことを遥かに越えて、毎日の「小さな」ことが、今日の私を生かしている。

いつもと変わらないように見える今日の日に、
いつの間にか、イエス様が私に出会ってくださっている。
これは私にとって、岩島神父さまの言うように、「ビックバンのような驚き」でした。