目次
25-1. 3つの秘跡
25-2. さまざまな賜物、一つのからだ
25-3. 「パン裂き」の意味
25-4. ミサの実際とその内実—「ミサ式次第」から
洗礼・・・信仰の始まり
堅信・・・洗礼の完成、キリスト者としての成人式
→自分が受けた恵みを人にも分かち合う、聖霊の恵み
聖体・・・キリストのからだに与る、入信の完成
「ミサ」という言葉
→派遣
(約9分)
25-2. さまざまな賜物、一つのからだ
教会とは何か=キリストのからだ
1コリント12:1-13
「兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない。あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、あなたがたの承知しているとおりである。そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」
カリスマ=「いただきもの」
さまざまな賜物(知恵、信仰、いやし、力あるわざ…)、一つのからだ
→「キリストの場合も同様である」(1コリント12:12)
違いや相性の良し悪しを越えて、全ては「賜物」
→すべては、愛(1コリント13章)
→すべては、教会の徳を高めるため(1コリント14章)
・・・この中心はキリストのからだ
1コリント10:16
「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。」
(約20分)
25-3. 「パン裂き」の意味
使徒行伝2:42
「共にパンをさき、祈をしていた。」
=ミサ
・・・教会は生まれた直後からこのことに生き、続けてきた
(約9分)
25-4. ミサの実際とその内実—「ミサ式次第」から
1)開祭 入祭の歌
あいさつ
回心
あわれみの賛歌(キリエ)
栄光の賛歌(グロリア)
集会祈願
2)ことばの典礼(み言葉の祭儀)
第一朗読(旧約聖書)
答唱詩編
第二朗読(使徒書簡)
アレルヤ唱
福音朗読
説教・・・みことばが伝わるための介添え
信仰宣言
共同祈願
3)感謝の典礼(聖体祭儀)
奉納・・・自分たちの生活を神に捧げる
叙唱
奉献文・・・福音書にある最後の晩餐の場面そのもの
第二奉献文
『まことにとうとくすべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。
わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。
主イエスは、すすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。
「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)。」
食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。
「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯。
あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血(である)。
これをわたしの記念として行ないなさい。」』
記念唱
司祭 「信仰の神秘。」
会衆 「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」
⇒キリスト教信仰の根本
・・・世の終わりまで、これを続けよう!
栄唱
4)交わりの儀
主の祈り
平和のあいさつ
平和の賛歌
「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。」
聖体拝領
5)閉祭
派遣の祝福
閉祭のあいさつ
司祭 「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和の内に。」
会衆 「神に感謝。」
退堂
なぜこのようなことを、教会はし続けてきたのか・・・?
(約27分)
一人一人の持っている感受性であるとか、指導力であるとか、
また、クリスチャン同士の交わりであるとか、そういったものが、
すべて最後の晩餐を記念するために備えられている
そのように考えたことは全く!ありませんでした。
プロテスタントは、「万人司祭」という考え方ですが、聖餐というこの秘蹟を、
キリスト教の信仰の中心として改めて捉えた時に、
神の前には皆がかくあるべきという自分たちの姿勢も大切だと思いつつも、
“キリスト役”によって、その方の現臨を肌で感じるということは、
それ以上にとても豊かな事だったのではないだろうかと思わされました。
ずっしりと感じた聖餐の重み。キリストの御身体の豊かさ。
次の式では、もっともっと深く味わえる様、祈り願っています。
(新人N)