26.「罪と赦しの秘跡―福音の真髄」


目次
26-1. 自己弁護し続ける人間と神の救い
26-2. 回心を通して回復される人間性
26-3. 「赦しの秘跡」の実際
26-4. 罪を認め、告白する−人間の一生の課題


26-1. 自己弁護し続ける人間と神の救い

自分の中の負い目、ゆがみ
…「今更認めたら、立つ瀬がない…。」

赦しの秘跡:
キリストの福音が、教会の中で起こり続ける具体的な形
=「神はあなたを無条件で赦してくださる。なぜなら、あなたを愛しているから。」

回復、生きる希望
…赦しの秘跡は、ただ「赦された!」というだけで終わらない


(約19分)

26-2. 回心を通して回復される人間性

ルカ15:11〜16
「また言われた、『ある人に、ふたりのむすこがあった。
ところが、弟が父親に言った、
「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」。
そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
それから幾日もたたないうちに、
弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、
そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
何もかも浪費してしまったのち、
その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、
その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、
何もくれる人はなかった。 』」
ルカ15:13a
「それから幾日もたたないうちに、
弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、」
=人間の心理
…「これは俺のものだ、好きなように使おう」

ルカ15:13b〜14
「そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
何もかも浪費してしまったのち、
その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。」
「放蕩」=撒き散らす、無駄に消費される
…飢餓状態、人間性の飢え、「何かが足りない」

ルカ15:17〜19
「そこで彼は本心に立ちかえって言った、
『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、
わたしはここで飢えて死のうとしている。
立って、父のところへ帰って、こう言おう、
父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。
どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、
父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」
「いったい俺は何をやっているんだ・・・?」

自分の中にある「何かがおかしい」というもの
…「これを認めたらおしまいだ」と思っているうちは、回心は訪れない

回心は完結していない

ルカ15:20〜24
「そこで立って、父のところへ出かけた。
まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、
哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
むすこは父に言った、
『父よ、わたしは天に対しても、
あなたにむかっても、罪を犯しました。
もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、
『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、
指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。
食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったのだから』。
それから祝宴がはじまった。」
息子の回心の前に、父は迎えに出ていく(「哀れに思う」)
…「赦す」「赦さない」の問題ではない。当然、神は赦す。

神との交わり、その喜びと恵みのプロセス
…罪の赦しがあるのは、当然のこと。
=主イエスの福音

自分の口で告白して赦される時、人は本気になる。
=新しく神と共に出発することの、実感を味わう。


(約31分)

26-3. 「赦しの秘跡」の実際

究明・痛悔・決心・告白・償い
司祭による罪の赦しの宣言


(約9分)

26-4. 罪を認め、告白する−人間の一生の課題

人間にとって、罪とは根本的であり、非常に具体的なこと
…なぜカトリックが「赦しの秘跡」を重んじてきたか

個々の具体的行為
がんじがらめになってしまっている存在そのもの
…人間の罪とは、その両方

現代人は、この赦しの秘跡・罪の告白を軽視していないか…?


(約7分)

目次に戻る
incl_img_03

「告白して、罪の赦しを得て死ねたら、すごく幸せです。」「すっきりします。」
今回、一番自分の心に響いた神父様の言葉です。
私はあっ!と思いました。
この教えはそういう事を全然隠さないんだって。
むしろ真っ向からむかっていっているんだと感じました。

罪の赦しと死。救済。現代人には希薄になっている想い、祈りの心ですよね。
岩島神父もお話の最後で、現代の人にはこの赦しの秘跡が軽んじられている、とも。

そして、日本史が好きな私はすぐに藤原道長の最期を思い出したんです。
阿弥陀堂の中で、自分の手を阿弥陀如来像の手と五色のひもで結わえつけて、
釈迦の涅槃に習って、北枕西向きに横たわり、
集められた沢山の高僧と共に念仏を唱えながら亡くなった。
というあの徹底したエピソード。

どうやってでも、何をしてでも救済されたい。
この道長の行動を、ちょっと、現代の日本人からするとやりすぎぐらいな感じだなあ、と思います。

でも、よく考えてみると、本当は誰だって死は恐ろしい事だと思うんです。
むしろ、本能で感じていること。
そこを今の社会は、死という直視出来ないものをうまく隠して、
出来るだけ避けさせようとしている。

クリスチャンとて、「死んだら天国」と容易に片づけてしまいがちですけど、
多分、いざその時になったら、その救いの根本にある自分の罪の問題というのは
きっと考えざるを得ないなあと思うんです。

まだ、私が死ぬのはもう少し先になるかな…と勝手に思っていますけれど(笑)
神父様のお話からは不思議な憧れのような気持ちを今回抱きました。

(新人N)