27.「キリスト者の生き方1―この世を愛する信仰」

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目次
27-1. この世を生きる姿勢
27-2. イエスがこの世で成し遂げたこと
27-3. 不条理な世界の中で
27-4. 人間経験から開かれてくる次元
27-5. 不条理を跳ね除ける力


27-1. この世を生きる姿勢

ヨハネ3:16
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
信仰・希望・愛:目で見て、手で触れることの出来ないもの
この世の事柄:いずれ過ぎゆくもの、具体的な生き方を形作る

神がこの世界を造られた(創世記1章)
・・・神に委ねられた人間
・・・しっかり生きよ


(約8分)

27-2. イエスがこの世で成し遂げたこと

イエスはこの世で何を成し遂げたのか?
・・・書物ひとつ残さず、十字架で殺される。

生きること
・・・ナザレの30年間(労働、自然観、人生…)
→「生きる上で、何が本当に大切か?」

イエスの教え、行動
・・・人間そのものへ向かうイエス

キリスト教の「この世」への二つのアプローチ
・離脱
・執着


(約14分)

27-3. 不条理な世界の中で

カミュ、カフカ:実存主義文学
・・・生きている実感が無い、しっくり行かない
=この世への違和感

この世への関わり
・・・無意味、不条理への関わり
・・・創世記以来の人間存在


(約6分)

27-4. 人間経験から開かれてくる次元

ゲルト・タイセン
「『人はパンのみにて生くるにあらず。』
この言葉が今日意味しているのは、人間はより多くのエネルギーを生産し、
より多くの薬を開発し、より多くの自動車を製造し、
より多くの知識を伝達することによってのみ生きるものではない、
ということである。」(『批判的信仰の論拠』)

不条理さ、合理性追求の中で感じること
・・・それらに対する感受性、経験の重要さ
→知識に先立つ

スキレベークス
人間の経験は、実際にそれを経験すると、それまでの知識以上のものであり、それが真実である。

「宗教は現実世界に対する別の関わり方を示して、支配的な力思考の動機に対して、
二者択一を迫るのである。宗教が現代の世界において機能を発揮するのは、
宗教が非現代的であり、現代人の意識の基本的動機に逆行するものだからである。
宗教は異議申立てによって生きるものであって、適応によって生きるのではない。」

別の関わり方の提示

⇔功利主義、生産性

いのち、美、そして存在への共鳴
・・・この逆の感覚(死、醜さ、不在)


(約28分)

27-5. 不条理を跳ね除ける力

生はすなわち不条理
・・・「これではおかしい」という感覚

共鳴経験・不条理経験の奥にあるもの
→この世を超えた世界への感覚

神との出会いへ


(約8分)

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副題の「この世を愛する信仰」という言葉が改めて気になったというか、
この世を愛することなんて自分に出来るのか?と思ってしまいました。
この回のテーマでもありますけれど、世の中なんてのは不条理そのものというか、
それにやっと折り合いをつけて皆生きているのだから、
そこに「愛」なんて不釣り合いもいいところじゃないでしょうか。

それでも、岩島神父が言われたのは「不条理をはねのける」という事でした。
そして、そこに「打ち勝っていく」のだと。
どうにもならないから、誰にも太刀打ちできなかったから
不条理のぐちゃぐちゃな世界であるはずなのに不思議な話です。
筋が通っていない様にも思える。
でも、このお話がそこでむしろ破綻するどころか
力を増すのは、なぜでしょうか。

こんな世の中愛せない。自分自身の有様も受け入れられない。
生きることそのものがもはや矛盾に取り囲まれてしまった様な状況で、
でも、そんな私を愛する方がおられる。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛された。」
不条理をはねのけるほどの愛とは一体どれほどのものだろうか。
十字架の光景の中、私の為に主がいのちを以って成して下さったことを今心に思い浮かべています。

(新人N)