29.「最終回・死と愛―永遠の生命について」



目次
29-1. 終末論は、単なる終わりではない
29-2. 「万物の完成」というビジョン
29-3. 「主が来られるまで」
29-4. この世の目的・人の命の意味


29-1. 終末論は、単なる終わりではない

人間…いつの間にか生まれ、何故か生きている存在
→「私は何故生きているのか」

人類の歴史…
→「世の中はこの先どうなるのか」

これに応えるものがある
=終末論
=「世界は、私は単なる混沌で終わるものではない」
・・・この確信


(約10分)

29-2. 「万物の完成」というビジョン

一般的な「世の終わり」のイメージ
=世界の破滅

キリスト教における「世の終わり」のイメージ
=世界の完成
・・・有意味な世界の完成という信念

cf.マルコ1章14節a
「時は満ちた、神の国は近づいた。」

第二バチカン公会議『教会憲章』より
「永遠の父は、その英知といつくしみに基づく、全く自由な神秘的な配慮をもって全世界を創造し、人々を神の生命への参与にまで高めることを決定した。・・・そして父はキリストを信ずる人々を聖なる教会として呼び集めることを決定した。」
エフェソ書1:4-10
「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。」
イザヤ書11:1-9
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの/柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」
・・・「終わりの時」に実現される、神の壮大な計画。万物=被造物全体の完成。


(約19分)

29-3. 「主が来られるまで」

教会とは何か
・・・「主の死を思い、復活を讃えよう。主が来られるまで。」(ミサ中の『記念唱』より)

「主が来られる」
=来臨(再臨)
・・・キリストを証しつづけよう、世の終わりまで

1コリント15章20-28節
「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」
・・・「必ず神が完成してくださる」という信念岩島神父

1コリント16章22節
「マラナ・タ」=主よ、来てください


(約12分)

29-4. この世の目的・人の命の意味

29-4. この世の目的・人の命の意味
マタイ25章31-46節
「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。」

→何が「終わりの時」の裁きの基準か

人間における死
=その人の生の全てがあらわにされる時

・・・それこそが「裁き」
=神の前に立つ

私が「私の生」の中で何を成したか/成さなかったか
・・・永遠の命の「質」を問うもの


「最後の審判」は必然
・・・人の命も、世界全体も、総体としてその価値が見極められる時


(約24分)

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岩島神父のお話を聴いていて、マタイ25章31-46節は
そのような内容だったのだなと改めて思いました。
確かに、永遠の生命に与るそのための基準に
「神を信じれば」とか「洗礼を受ければ」というようなことを主イエスはおっしゃっていませんでした。
ただ、「最も小さい者のひとりにした事、しなかった事」が問われていたのですね。
主イエスを信じさえすれば救われる。それは間違いのないことだと思うんです。
でも、「信じること」の中身は実際何なのか?という事が大切なのだと思いました。
終末と聴くと、想起するのは大体、滅亡とか破滅とかそういうイメージであって、
ともすれば、クリスチャンはそういった危険から自分の身を避けて、天国へ行ける。
そんな印象が私にはどこかありました。何と言うか、滑り込みセーフのような…
でも、終末がただひたすらに滅亡だけだとすれば、「主よ来て下さい」なんて祈らないし、本当は祈れないはず。
何か、やっぱりそこで自分の考えがズレていたのだなあと思わされました。
今生きているこの世が完成へと至り、そして、今生きているこの私自身が完成へと招かれているとするならば、
やっぱりそこで主イエスから求められているものは、この世から逃げ出すことではないだろうなあと思います。
でも、私がこの世で何をしていくべきか、何をすべきか、
信じることの中身を決めるのは私ではなく主イエスご自身なんですよね。
わかったようになったつもりの時にこそ、
祈りの中で、主の御心を絶えず聴いていく。そのような者とされて歩んでいきたいです。

(新人N)