7「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」ー「神の掟」と「人間の言い伝え」
マタイ22:15〜22、他
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1,「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」の解釈
―代表的な注解書の記述から
(約15分)
2,「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」の真意を求めて
―3つの原語からたどる
(約22分)
3,「神の掟」と「人間の言い伝え」
―マルコによる福音書7章2〜8節から
(約18分)
聴取期限12/13
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●今回の箇所は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉。よく知られた言葉でありながら、しかし、この言葉の真意を知るのは難しいと雨宮神父も仰る。
●専門家である聖書学者にも「真意は図りがたい」と言わしめる、このイエスの言葉。そこで、「適っている」エクセスティン、「肖像」エイコーン、「偽善者」ヒュポクリテースの3語の意味を辿るという別の角度から、この言葉にアプローチする。
●主イエスはファリサイ派や律法学者達を「偽善者」と批判される。彼らや私たちの何が、主イエスをそこまで憤らせるのか。
●マルコによる福音書7章2〜8節で引用されているイザヤ書29章13・14節の言葉。教会生活の中で私たちが無意識の内に行ってしまっていることは何か。
●「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
これは、イエスがファリサイ派たちを言い負かしたというだけでは済まないのでは・・・?
●ファリサイ派の人たちというのは、律法に忠実で、しかも熱心な人たち。
しかし、彼らは律法を「書かれた文字」として考えていた。
その律法を具体的な状況に合わせるために、様々な解釈がなされた。
しかし、それは神から見れば、人間が無意識の内に勝手に変えてしまったもの。
●感じるのは、「人間の業の深さ」のようなもの・・・。
●自分では律法を守っているつもり。
そこにある「都合の良さ」。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
その解釈を巡って見つめるべきは、ここにこそあるのでは・・・。