9.「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」―何故イエスは疑う者を遣わすのか

9「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」―何故イエスは疑う者を遣わすのか
マタイ14:22〜33、他

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1,「信仰の父」が故郷を捨てた理由
―アブラハムの生涯その1


(約14分)

2,「信仰の父」の躓き
―アブラハムの生涯その2


(約19分)

3,ディアクリノーとディスタゾー、2つの「疑い」


(約13分)

4,2つに引き裂かれた心
―マタイとマルコの「湖の上を歩く」出来事の比較から


(約15分)

聴取期限2/7

聖書を読み解く

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ポイント
●旧約聖書では「信じる」よりも「探し求める」という言葉の方が多い。そしてそれ故に、「疑う」という言葉も少ない。何故、旧約の民は「探し求める」のか。アブラハムの生涯から、その背景を辿る。
●アブラハムの歩みは、その最初から「信仰の父」と呼べるようなものではなかった。躓きから始まった彼の旅を通して、彼がどのように「信仰の父」になったのかを辿る。
●新約聖書に出てくる「疑い」を意味するギリシャ語、ディアクリノーとディスタゾー。異なる意味合いを持つこの2つの言葉を吟味し、「信仰と疑い」の関係を探る。
●信じたくとも信じられない。そのような人間の現実を、新約聖書はどう見つめるのか。マタイ14:22〜33に描かれている「湖の上を歩く」出来事を、その並行箇所であるマルコ6:45〜52と比較し、「信仰と疑い」の聖書的次元を探る。


今回の聖書箇所であるマタイ14:22〜33の並行箇所、マルコ6:45〜52では、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたから」と、弟子の無理解が描かれています。
対してマタイでは、「『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」と、正反対になっている。

ペトロが舟から降りるということがなかったら、舟の中にいた人たちの驚きは無かった。

彼のその行為がなければ、他の弟子たちの驚きは無かった・・・。


マルコと同様に、理解できないままで終わってしまったかもしれません。
だから、「心が二つに分かれる」ということは、信仰者には起こるべくして起こること。

イエスはそれを知っている。

だから、ガリラヤの山で弟子たちに再び出会った時に、
彼らが疑っていたことを知っていて、宣教に派遣したのではないか…。