12.最終回・「本当に、この人は神の子だった」―言葉を超えたイエスの死の深み

12 最終回・「本当に、この人は神の子だった」―言葉を超えたイエスの死の深み
マルコ15:33〜39、他

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1,マルコによる福音書での「イエスの死」
―共観福音書の比較から


(約16分)

2,自分をからっぽにしてへりくだる
―フィリピの信徒への手紙2:6〜11から


(約18分)

3,「わが神、わが神、なぜ」
―マルコ福音書が引用する詩編22から


(約8分)

4,「その道を、イエスに従った」
―マルコ福音書10:46-52から


(約16分)

聴取期限5/9

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ポイント

  • 最終回のお話の中心は、マルコによる福音書でのイエスの死。マタイとルカは、それぞれの視点からイエスの死を描く。それでは、マルコ独自の視点とは、何か。共観福音書の比較を通して、マルコの独特の視点を浮き彫りにする。
  • 「本当に、この人は神の子だった」。百人隊長がそう語る理由は、マルコに於いては定かではない。そこで続けて、フィリピ書の「キリスト賛歌」の構造分析を通し、マルコがそのようにイエスの死を描いた根拠を探る。
  • 自分を空っぽにして従順になったキリストを、神は高く上げられた。しかし、そのイエスがマルコでは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架上で叫んでいる。この元となった詩編22から、マルコが私達に生の形で伝えようとしている「十字架を受け止めていくこと」の意味を見つめる。
  • 言葉を超えたイエスの死の深み。それをどのように受け止めるかは、どう生きるかと同じ。同じマルコの「盲人バルティマイの癒やし」から、私達の生き方へのイエスの心を探る。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)


この言葉は、「絶望の言葉」として受け取られる。しかし、それは違うのではないか。
そうとしか言いようのない現実。しかし、その中から「わが神、わが神」と呼びかける。呼びかけているということは、そこには「信頼」がある。
だからこの叫びは、希望を含んだ絶望。

他の福音書に先んじて書かれたマルコ福音書には、言葉にならない思いが込められていると感じる。
私達は、その「思いを」どう受け止めるか…?

マタイは、終末の到来の徴として、十字架のイエスを見ている。
ルカは、完全に従順になりきった人物として、イエスを見ている。

そういう単純さは、マルコには無い。
しかし、「言葉にすることが出来ない深み」が、十字架にはあるのではないか…。

マルコが見た十字架の深み。
それを、私達はどう考えるか。
イエスとは、私にとって誰なのか…。